最澄?焼き討ち?比叡山延暦寺と聞いて、何を思いますか。

「最澄さん、やれご苦労」で805年、最澄さんが天台宗を開いたと覚えた時に、一緒に比叡山延暦寺のことも知りました。その後、1571年の比叡山焼き討ちのことを知り、織田信長って…と思いました。そんな比叡山延暦寺のことをご紹介します。

比叡山延暦寺って、こんなお寺。

延暦寺 根本中堂と回廊

延暦寺 根本中堂と回廊

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。
延暦寺の名前の由来が、桓武天皇時代の元号とは知りませんでした。
言われてみれば、暦が伸びるって、命を伸びるみたいな感じでいいですね。
ちなみに、「鳴くよ、鶯、平安京」で794年は延暦13年のことです。
奈良時代から平安時代に変わる時にちょうど使われてい元号です。

比叡山の「大山咋神」って、どんな神様?

比叡山

比叡山

日本神話に登場する神。「咋」は「杭」に当てた文字。神が依り憑く棒を神格化した神とも,山頂の境界となる棒を神格化した神ともいわれる。『古事記』によれば,穀物などの実りの神である大年神と天知迦流美豆比売との間に生まれた子で,近江国の日枝の山(大津市の日吉大社),また葛野の松尾(京都市西京区の松尾大社)にいて鳴鏑(音を立てて飛ぶ矢)を持つ神であり,山末之大主神という別名を持つという。『山城国風土記』逸文には,川を流れてきた矢を持ち帰り,それを戸の上に置いておいた娘が夫無くして子を生んだが,その戸の上に置かれた矢は松尾大明神であったとの記述があり,大山咋神,松尾大明神と棒あるいは矢との間に密接な関係があることを示す。
日吉神社は比叡山の麓にある神社です。
「山王」という別名を持つこの神社は、比叡山延暦寺の守り神的な役割を話しています。
ちなみに、信長が行った比叡山の焼き討ちの折、日吉神社も焼失しました。

また、大山咋神は、素戔嗚の子の大年神の子です。
即ち、素戔嗚の孫ということになります。
素戔嗚の妻と言えば、ヤマタノオトチ退治伝説で有名な櫛名田比売ですが、
大年神は櫛名田比売の次に素戔嗚の妻になった神大市比売との間の子です。

天台宗開祖「最澄」とは。

一乗寺蔵 最澄像

一乗寺蔵 最澄像

最澄は767年(もしくは766年)に、現在の滋賀県大津市で生まれました。
12歳の時に出家、14歳の時に得度し、17歳の時に度縁(国家が認める得度)しました。
その後、桓武天皇から唐への短期留学生に任命され、入学しました。
最澄が唐で学んできた仏教は、天台宗という教えです。これまで、日本に伝わった仏教は、南都六宗といって、六つの流派がありましたが、その中で一番盛んであったのは、法相宗でした。法相宗では、人間は家柄によって、仏になることが出来るものと出来ないものとがあると教えました。

ところが、天台宗では、人間は誰でも仏になることができる。人間のほか、この世の中の全てのものが、仏になることができると説きました。最澄は、この教えを唐で学んで、日本に広めたのです。また最澄は、これまでの僧が都の中の寺に住み、普通の人々と交わって、充分な修行をしなかったのを見て、これを改めなければならないと思いました。

そこで、京都の東北にある比叡山の山中に寺を建て、修行の場所にしました。この寺を延暦寺といいます。最澄はこの寺にこもり、僧は人々の手本になり、人々のために尽くさねばならないそのためには、一心に学問に励み、修行を積まねばならぬと弟子たちに教えました。こうして、天台宗からは立派な僧がたくさんでました。

法然像

法然像

「立派な僧」とありますが、どれくらい立派かというと、鎌倉新仏教の開祖は、皆、天台宗で学んだ経歴を持ちます。
そして、時宗の開祖一遍を除けば、皆、比叡山延暦寺に上り学んでいます。
ちなみに、鎌倉新仏教の開祖とは前述の一遍と、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元のことです。
錚々たる顔ぶれです。

比叡山焼き討ちの背景。

比叡山焼き討ち(絵本太閤記 二編巻六)

比叡山焼き討ち(絵本太閤記 二編巻六)

最澄は本当に優秀で、努力家で、かつ天才でした。
そのような優れた開祖を持つ比叡山延暦寺ですが、
今日のユダヤ教、キリスト教、イスラム教など世界中の宗教でも見られるように、
天台宗の中でも「山門」と「寺門」に別れて争うようになり、
争っていくうちに僧兵に代表されるような武装化が進みました。
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。
宗教が人の心を癒すものだと考えた時、この状況は残念なことですね。

比叡山延暦寺、歴史的事件の現場に行ってみましょう。

紅葉

紅葉

比叡山延暦寺は紅葉の名所でもあります。
信長が比叡山を焼き討ちにしたのは1571年9月12日です。
寺としての本分を忘れて乱れていたというのもそれが行われた背景にあるとも言われますが、
もともとのきっかけは信長が比叡山の土地を奪ったことにあるとされています。

また、今日の発掘調査の結果から、丸焼きという印象がある比叡山の焼き討ちですが、
それは少し誇張された表現であるようです。
とはいえ、信長は、僧兵だけでなく、信徒の女子供までも手にかけました。

現在の比叡山延暦寺は、そのような激しい出来事があったとは思えない程、凛とした空気感が漂います。
お山のお寺と聞くと、随分、遠い所にあるかのように思われますが、
京都駅からであれば、それ程、遠くありません。
お時間がある時に、お出かけになられてみてはいかがでしょうか。

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