【広島】戦国の混乱から立ち直った安芸安国寺≪不動院≫

広島にある不動院は平安時代ごろには成立していたといわれる寺。かつては「安芸安国寺」という名で戦国時代の交渉人として名高い僧「安国寺恵瓊」が立て直した寺として有名です。広島の原爆被害を逃れ、現在に至るまで中世の美しい禅宗様の姿を残す安芸安国寺についてまとめました。

安芸安国寺の歴史

 (11351)

不動院の歴史を知る上で、貴重な記録である江戸時代の「新山雑記」では、 当寺の開基は僧空窓であると伝えられています。 又、「当山記」には行基が開基とも伝えられていますが 創建年代や由緒については判然としていません。 只、金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝様式であることから、 当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。
国宝を擁するこの寺の寺歴はなかなか複雑で,もとは足利尊氏が南北朝の戦乱で戦死した武将達の霊を慰めるため全国60余カ所に建立した安国寺の一つであり,ここ安芸の国に建てられたことから,安芸安国寺と呼ばれていた。
 しかし,その後,禅宗から真言宗に改宗,不動明王を祀ったことから,本山一体を不動院と呼ぶようになる。
 その後,新日山安国寺不動院と名を改め,現在に至る。 
創立された年は明らかになっていませんが、
安置されている仏像の年代から平安時代ごろには成立していたと思われる安芸安国寺。
戦国時代の混乱で名前や宗派を変更したり、様々な歴史を持っている寺です。

不動院金堂

 (11348)

密教寺院である不動院だが、不動院金堂の造りは禅宗様である。これは禅寺である山口県の「凌雲寺」を移したものだからである。
戦国時代建立の禅宗様建築。天井墨書から天文9年(1540)頃建立と推定されている。
大内義隆が周防(すおう)山口に建てた建物を安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が安芸安国寺仏殿として移築したと伝えられる。現存する禅宗様の建築としては規模の大きい遺構であり,繊細な禅宗様の手法を用いながら,容姿には雄大な気風がうかがわれる,中世の本格的建物である。
国宝指定の不動院金堂。
広島市は原爆の被害を受けた都市ですが、この金堂は屋根の損壊、柱が折れるといった被害は受けたものの、
大きく姿を変えることなく現在まで鎮座しています。

戦国時代に活躍した人物の墓所

 (11349)

太閤秀吉公遺髪の塚
戦争中、「秀吉公の墓石を削って御守とすれば戦死しない」 とのジンクスにより、多くの人が削ったために、このような形となっている。
「御守」にするため多くの人々が削り取った結果、
特徴的な形になった「太閤秀吉の遺髪塚」をはじめ、「福島正則公の墓」など、
戦国時代に活躍した人物の墓所としても有名です。
しかし、安国寺と戦国時代はどのような関係があったのでしょうか?

安国寺恵瓊の存在

 (11345)

一度戦国時代の戦火で荒廃した安国寺を立て直した安国寺恵瓊。最期は虚しくも関ヶ原の戦いで処刑されてしまう。
本能寺で織田信長が横死することを予言したその鋭い眼力で外交手腕を発揮し、交渉相手であった秀吉に信頼されて伊予6万石の大名に抜擢されたともいわれ、九州征伐や朝鮮の役にも出陣する。宗教家であり、政治家、外交官として乱世を生き抜いた知恵者である。
南北朝時代には、足利氏が全国に置いた安国寺のひとつとされ、守護武田氏の保護のもとで栄えましたが、武田氏の滅亡とともに衰えます。これを再興したのが恵瓊であり、毛利氏の使僧として活躍し、豊臣秀吉からも厚い信任を得ていた彼は、その力を背景に安国寺の建て直しを行い、中央の大社寺にもひけをとらない大寺としました。
安芸安国寺の歴史において安国寺恵瓊の存在は欠かせないものです。
安国寺恵瓊は安芸武田氏の生まれでしたが毛利元就によって一族が討たれます。
しかし、家臣に連れ出され安芸安国寺に出家、類まれなる交渉術を発揮し毛利家の家臣へ、
そして毛利家と豊臣家の間を取り持つ交渉人としても活躍します。
元々武田氏の菩提寺であった寺なので安芸安国寺の復興にも大いに力を入れ、
現在に続く栄華の礎となった人物です。

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