京都の阿弥陀寺に織田信長の正真正銘のお墓があるって本当?

天下統一まであと一歩というところで、明智光秀らの襲撃(本能寺の変)によってこの世を去った織田信長。あまりにも有名な人物でいまだにファンが尽きません。そんな信長のゆかりの地はたくさんありますが、中でも阿弥陀寺は別格です。

織田信長のお墓ってどこにあるの?

織田信長の本当のお墓がどこにあるのかは今のところ不明なんだということをご存じでしたか?
信長は「自分の亡骸は敵に渡すな」という遺言を残してもいたそうです。
最近になって、京都の阿弥陀寺が正真正銘の信長のお墓であるという説に信憑性が増してきましたので、
ご紹介いたします。

阿弥陀寺と織田家の関係

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信長のお墓とされている場所は全国で20ヶ所ほどもあるのですが、その中でも、阿弥陀寺(あみだじ)と織田家はとても深~い関係なのです。

阿弥陀寺の基本情報から

所在地は京都府京都市上京区です。
浄土宗の寺院で、本尊はチベット仏教を源流とした阿弥陀如来です。

阿弥陀寺を創建した人は? 

阿弥陀寺の創建者は玉誉清玉といいます。
信長の父である織田信秀が行軍していたときに、
道中で苦しんでいる妊婦をみつけ介抱したことから始まります。
結局妊婦は亡くなってしまいましたが、そのときにお腹に宿していた子こそが「玉誉清玉」なのです。

その後、信長の義兄弟として大切に育てられ13歳で出家し、
修行を積んだ後、1555年に近江国(現在の滋賀県あたり)で阿弥陀寺を創建しました。
(信長没後の1585年に今の京都府に移転しています。)

信長の父である織田信秀の救いがなければ、妊婦の子ども(玉誉清玉)は命を落としていたことになりますね。
まさに織田家あってこその阿弥陀寺と言えるのです。

阿弥陀寺にはなにがあるの?

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信長、信忠父子の墓は
同じ場所に並んでおかれている。

向かって右側が信長、
そして向かって左側が嫡男の信忠の墓である。

      
 芝薬師町にあった阿弥陀寺は
 天正15年(1587) に上京区寺町通に
 移転したが、信長父子の墓石はその当時のまま
 のものらしい。

写真中央の墓石が信長と信忠のお墓になります。阿弥陀寺で拝見できます。
「予想より小さい」と思った方もおられるかもしれませんが、
その理由は、一度火災がありほとんどが消失したということですが、実はそれ以外にもう一つあるのです。

それは、信長と懇意にしていた玉誉清玉と、
後の天下統一の主役となった徳川家康との関係があまりうまくいかなかった点があげられます。

秀吉は「お墓の存在を、信長に代わって自分が天下をとったこと」の象徴としたかったのですが、
阿弥陀寺側は「信長らが静かに眠る神聖な場所にしたい」と考えていて、意見の相違があったのです。
そのため、秀吉に刃向かう形となった阿弥陀寺の扱いが歴史的に邪険にされてしまったということです。

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こちらは阿弥陀寺に保存されている木像の写真になります。
向かって左が信忠、右側が信長です。
本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもある当寺は、天正十五年(一五八七)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。

織田信長ってどんな人だったの?

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織田 信長(おだ のぶなが、1534年5月 – 1582年6月21日)は、戦国時代の日本の武将にして、室町幕府を滅ぼし、畿内を中心に強力な中央政権である織田政権を確立した第六天魔王かつ三英傑(三ええケツ)の1人である。また、言わずと知れた「焼き討ちマシーン」であり、民衆は元より部下からも恐れられた。
織田信長は、小学校の授業でも習うほどの「比叡山焼き討ち」など残虐性の強い印象がありますよね。
刃向かうものに対しては容赦なく攻め、攻撃的であった。
良く言えば、畏怖の念を抱かれていた。
しかし、同時に幾多の恨みも買ってしまっている人物であったことは想像できます。

ついに「本能寺の変」 その時の信長のたち振る舞いは?

敵対勢力を次々と攻め滅ぼし、天下統一目前まで来ていた戦国の覇王 「織田信長」 が、
家臣の 「明智光秀」 の謀反(反逆)によって、殺害されてしまった事件です。

「本能寺の変」 は戦国時代最大の事件であり、戦国の歴史のクライマックスでもあります。

この事件を契機に、戦国の歴史は大きく変わる事となりました。
「織田信長」 が倒れ、「豊臣秀吉」 が天下を手中にし、最終的には 「徳川家康」 が江戸時代を築きます。

用意周到に身辺を固め、いよいよ天下統一まであと一息という1582年に、
「本能寺の変」で家臣の明智光秀に反逆された信長。49歳という若さで自害することになりました。

最も信頼していたであろう明智光秀による反逆。それに対する最後の抵抗としての自害でした。
それは「家臣に首をとられてはならないという強固な意志」が働いたと言えます。

さいごに

残念ながら今回の記事では横道になってしまうので割愛させていただきましたが、
阿弥陀寺を調べるだけでも信長の行おうとしていた数々の政策の革新的な面、
信長の性格の魅力的な側面がたくさん見えきました。

本当のところは分かりませんが、
野心家であった信長自身は自分のお墓としてたったの1ヶ所を定めるということ自体を
希望していなかった可能性もあると思います。

カリスマの眠ると言われている阿弥陀寺はいつか訪れてみたいですね!

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