「腰越状」って知っていますか。源義経ゆかりの満福寺。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、平家を倒すのに一役買った源義経。ご存知の通り、その最後はとても悲しいものでした。そんな義経ゆかりのお寺が鎌倉にあります。満福寺と言います。義経とどんなつながりがあるのでしょうか。

まずは、満福寺のこと。

満福寺(鎌倉市)

満福寺(鎌倉市)

「まんぷくじ」という名のお寺は複数あります。
漢字こそ違いますが、京都の宇治にある黄檗宗の「万福寺」などは有名です。
しかし、こちらの「満福寺」は鎌倉市腰越にあります。
古来、鎌倉の入り口とされた地域です。
最寄り駅は最中でも有名な江ノ電「腰越駅」です。
徒歩数分でお寺に到着します。
江ノ島電鉄

江ノ島電鉄

最寄り駅である「腰越駅」の一つ手前
「鎌倉高校駅」付近の写真です。
満福寺は真言宗大覚寺派のお寺です。正式名は龍護山医王院満福寺です。
天平十六年(七四四)、聖武天皇の勅命で行基が建立した寺と伝えられています。
東国で疫病が流行したため、行基は、腰越の地で霊威を得て、薬師如来を刻しました。
そのお薬師さまを祀ると病はたちまちに去ったということです。
以来、満福寺のお薬師さんは、病気平癒の仏さまとしてずっと信仰されてきました。
行基

行基

行基(ぎょうき)がおこなった行動は、本当に尊敬にあたいする。この時代の僧と言えば、寺院の中でお経をとなえ、朝廷における自分の地位の出世のことばかり考えている者が多かった。そのような中で行基は寺院の外に出て、重税と天然痘(てんねんとう)に苦しむ農民を助けるために奉仕(ほうし)をした。・・・
満福寺は、義経だけでなく、行基ゆかりのお寺でもあるのですね。
行基と言えば、東大寺造営のための勧進をすぐに思い出しますが、
彼の業績でもっと注目されなければいけないことは、飢えた人や病気の人を救うために設置した布施屋のことなど、
東大寺に至るまでに彼が行った社会福祉活動の方なのではないでしょうか。

満福寺と源義経のつながり。

源義経

源義経

人の好みは色々だけれど、
義経は少なくとも美少年では
なかったという説もあったりします。
ここ満福寺は、讒言を受けた源義経が兄の頼朝との和解のため、鎌倉に入るべく、一時宿所とし、兄への手紙を書いた寺である。
満福寺が相模国腰越にあったため、その手紙は「腰越状」と呼ばれる。・・・

「腰越状」を書くに至った理由は・・・。

平安時代末期。「貴族の世」から「武士の世」へと移り変わる時代の転換期。武士の二大勢力、「平家」と「源氏」は覇権を争い、「平治(へいじ)の乱」が勃発した。戦いは、清盛率いる平家が勝利し、源氏の大将・義朝(よしとも)は命を落とした。当時13歳だった義朝(よしとも)の三男は伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流刑に処され。腹違いで2歳の弟は、母が清盛の妾となる事で命を救われる。成長した二人は、打倒平家に立ち上がる。源氏の棟梁(とうりょう)であり、鎌倉幕府を創設した天才政治家。源頼朝。その兄を助け、奇抜な戦略で次々と平家を打ち破った戦の天才。源義経。二人は共に力を合わせ、平家と戦った。が…連戦連勝し、得意になった義経は、棟梁である頼朝の許可なく、勝手に朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)をもらってしまう。・・・

「腰越状」の現代語訳の一部をご紹介。

左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。・・・
源頼朝

源頼朝

この絵、頼朝だと長らく言われて
きましたが、実は、頼朝ではなく
足利直義だという説もあります。
戦いに作法などないと言ったらそれまでですが、義経が平家に対して行った戦い方、
例えば壇ノ浦における船頭を最初に討つ方法などは、当時の常識から考えると、とても卑怯な戦い方です。

また、頼朝が義経に求めていたことは、三種の神器の奪還です。
それができていないのに浮かれて、義経と頼朝という対立構造を作りたい朝廷の口車に乗って、
頼朝の許可を得なければもらってはいけないとされていた官位をもらってしまいます。

まあ、もちろん讒言もあったことでしょう。
ただ讒言だけで頼朝が怒ったとは考えられません。
侍の棟梁となろうとする頼朝からすれば、ダメダメポイントがたくさんだったと推測できます。

にも拘らず、「功績はあっても・・・」なんて書かれた手紙をもらったら、どうなるかは火を見るよりも明らかです。

それでもやはり、皆、義経が好き!

五条大橋での牛若(義経)と弁慶(歌川国芳作)

五条大橋での牛若(義経)と弁慶(歌川国芳作)

私たちは、実際に義経や頼朝に会うことはできません。
歴史的な事実や残された記録を見て、推測するだけです。

あくまでその推測ですが、義経が当時の戦い方の作法をとらなかったのは、
作法を知らなかったのかもしれませんし、知っていたけれど戦いの天才としてひらめいたからかもしれません。

それに、天狗になったととられるような行動や頼朝への手紙は、
お兄さんなら分かってくれる、最終的には許してくれるという甘えからくるものだったのかもしれません。

そう考えると、何とも可愛いと思えてくるから不思議です。
判官びいきにもなりますよね。

歴史上の感情の分岐点、満福寺へ行きましょう。

腰越状の一件後、しばらくして頼朝と義経の関係は修復しがたいものになります。
だから、この満福寺は歴史上の感情の分岐点の一つの現場であったと言えるでしょう。

ちなみに、このお寺には義経の従者として有名な弁慶ゆかりのものも色々あります。
例えば、弁慶の手玉石、ご覧になられたら、その大きさに驚かされることでしょう。

是非、一度、お出かけになられてみてください。

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