悲劇の皇子「護良親王」鎌倉宮にいたるまでの衝撃の真実!

護良天皇の生涯をたどりながら、鎌倉宮に祀られることとなった悲劇の逸話を、お話しします。何があったのか?何故?その謎にせまります。きっと、皆さんの参詣の意識に変化があるでしょう。ぜひ、護良天皇への理解を深める機会にしてください。

1 若き戦士

護良親王(もりよししんのう・もりながしんのう)は、1308年に後醍醐天皇の第三皇子として生まれました。そして、三千院(京都)に僧として入りました。鎌倉宮は別名で「大塔宮」と言いますが、それは護良親王が当時、大塔宮(おおとうのみや・だいとうぐう)と号していたからです。
法勝寺九重塔址

法勝寺九重塔址

大塔宮護良親王は、この大塔(だいとう)から号されました。当時は名高い法勝寺でしたが、現在では跡地となっています(京都)。
そんな彼も、若くして悲劇の始まりとなる戦いに出陣しなければならなくなりました。

2 戦火へ

名高い僧侶から世俗へ。それは、父親の後醍醐天皇が、2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱(1331)起こし、護良親王も参戦することになったからです。しかも護良親王は、その時、2年にわたって幕府軍と戦い続け、六波羅探題(京都)を滅ぼし、功績は高いものでした。僧としても戦士としても能力があったわけです。
有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた
六波羅探題(ろくはらたんだい)とは、鎌倉幕府が六波羅(京都)に置いた役職です。
結果は、後醍醐天皇側の勝利、鎌倉幕府は滅亡します。
しかし、討幕の功労者は足利尊氏とされます。

3 孤立へ

尊氏に認められることもなく、討幕後も京都へ戻らずに奈良を拠点として、護良親王は尊氏を牽制(けんせい)しました。

鎌倉幕府滅亡後1333年、後醍醐天皇の開始した「建武の新政」により、護良親王は征夷大将軍に任じられ京都へ向かいました。
しかし、親王は尊氏たちを警戒し続けたのです。

4 なぜに……

後醍醐天皇という父親

後醍醐天皇は、つなぎとしての天皇であって、自分の子孫に皇位を継げないと言われていたので、鎌倉幕府への反感が強かったのです。
しかし現実は、後醍醐は実質上の天下を治める天皇となりました。

ただ、北条氏の執権が権威を強めていた鎌倉後期。後醍醐天皇は討幕へ向かいました。
そして元弘の乱の際、1332年、天皇は隠岐島に流されます。この頃、護良親王らが各地で盛んに反幕活動をしていたのです。

後醍醐天皇という父親のために。そんな護良親王が見受けられます。でも心の内は、誰も信じられない。親王は自分の身に起こる悲劇を予感していたかのようです。

裏切り

島流しされていた後醍醐は1333年に脱出し、挙兵します。尊氏は後醍醐追討のために幕府から派遣されたのですが、結局は後醍醐に味方し、鎌倉は陥落し、北条氏も滅亡しました。

北条得宗家による執政体制となった鎌倉幕府は、政局不安をあおり、各地で反幕運動が起き、武士からの信頼も失っていきました。それに乗じて、足利尊氏と後醍醐天皇は自己の権力のために、互いに嫌い合いながらも、討幕へ向かい表面的に手を組んだことになります。

そこに信頼はなく、その狭間で護良親王は利用されている自分の身に、危機感があったのでしょう。裏切りは裏切りを呼び……最後は。

5 親王の抵抗

鎌倉幕府の崩壊後、護良親王は尊氏暗殺をたくらみました。そのため、1334年、後醍醐天皇の命令により、親王は捕らえられます。身柄は足利方に預けられ、鎌倉へ送られ、尊氏の弟である足利直義の監視下に置かれました。

護良親王が尊氏暗殺をたくらんだのは事実です。
しかし、その裏側の史実として、真実は別のところにあるかもしれません。それは、尊氏討伐計画は後醍醐天皇の命令であったという見方です。何故、このような別の真実が浮かび上がるのでしょう。

父との不和

後醍醐天皇が親王の征夷大将軍を解任し、彼の身柄を足利方に引き渡すとき、その理由は「皇位簒奪(こういさんだつ)」でした。つまり、護良親王が天皇の地位を奪い取ろうとしたという罪を、後醍醐天皇は理由としたのです。
しかし、その理由は飛躍したものであり、本当の理由ではないとされます。地位を奪う行為というのは、親王を尊氏側に引き渡す理由として乏しいのです。ですから、天皇が示した理由は、護良親王からすると「濡れ衣(ぬれぎぬ)」と考えられます。

そうなると、「別の理由」を考えます。
護良親王は、鎌倉幕府討伐の戦のさいに、天皇が討幕の発令を「綸旨(りんじ)」として出したのを無視して、皇子が命令する「令旨(りょうじ)」を発行しました。それから、親王と後醍醐天皇の関係は悪化したと言われています。

「別の理由」とは。
武家を良く思っていない後醍醐天皇が命じて、護良親王の「令旨」として尊氏暗殺計画が進められた。その計画を知った尊氏も兵を集めて備えた。そして、後醍醐天皇は暗殺計画がうまく行かなかったので、事前の策の通り、尊氏の問いに対し「自分ではなく護良親王の独断での暗殺計画だった」と答え、親王を裏切った。

要するに、裏のある「令旨」を目立たせたくないから、「皇位簒奪」を名目に、親王を引き渡して罪をつぐなわせたと考えられます。
それに加え、「令旨」にある尊氏暗殺を理由とすれば、尊氏側に親王の身柄を渡すのに、後醍醐天皇自身の威厳が、武家への謝罪と屈服という形で損なわれる可能性があります。「皇族第一位」の強い思惑があって、後醍醐天皇は活動していたからです。
以上から、天皇自身のための策略が、身柄引き渡しの別の理由と推察できます。

6 親王の死

護良親王が捕らえられた翌1335年、中世代の乱が起き、関東で次々に足利軍は北条軍に負けました。そして、護良親王は殺害されます。

親王にとって最後の悲劇です。
前征夷大将軍である護良親王は、北条時行に擁立される可能性が高く、そうすれば時行によって鎌倉幕府が復活すると予想されました。それが、護良親王殺害の理由です。

親王殺害の2日後、鎌倉は北条軍により陥落しました。

7 弔い(とむらい)

鎌倉宮の祭神である護良親王の悲惨さを物語るのは、親王の供養が多くなされていることです。
親王が幽閉された土牢

親王が幽閉された土牢

鎌倉時代、現在の鎌倉宮の場所に東光寺がありました。そこに護良親王は幽閉され、殺害されました。東光寺はその後、廃墟となりましたが、1869年、明治天皇の意により、護良親王を祭神として戦没者の慰霊のため、鎌倉宮が建立されたのです。土牢など、鎌倉宮には親王の悲劇を語るものが残されています。

理智光寺址

鎌倉宮の近く、理智光寺址には護良親王の墓があります。
首を斬られた護良親王が、噛み折った刀を死んでも放さなかったので、斬首した義博は恐ろしくなり、親王の首を捨てて逃げ去ったと言われます。その首を拾って葬ったのが理智光寺の僧だったということから、親王の墓、石碑が残されています。
妙法寺

妙法寺

鎌倉大町にある妙法寺は、護良親王の子の日叡が開山したと言われており、裏山に護良親王の墓があります。
東慶寺

東慶寺

ちなみに東慶寺には、親王の妹の用堂尼が親王の弔いのために入り、江戸時代は墓や土牢などを管理していました。現在、護良親王の位牌が祀られています。

南北朝時代

1336年に後醍醐天皇が吉野に入り、二分した朝廷が対立する南北朝時代が始まります。鎌倉との寺と言えば臨済宗(禅宗)ですが、京都で尊氏らは、臨済宗の夢窓漱石に勧められ、日本各地に戦没者の菩提を弔う、安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)という寺院と仏塔を建てました。この事実から、尊氏、直義兄弟の護良親王への罪悪感が非常に強かったことが分かります。

安国寺利生塔は、室町幕府没落とともに衰退しました。

カテゴリー

ピックアップ記事

  1. そもそも納骨とは?via www.toyostone.co.…
  2. 今週末は、普段馴染みのない神社やお寺にお出かけしてみませんか??デートや…
  3. キューピッドの由来は幸せを呼ぶキューピッドの由来は、ローマ神話の愛の神クピドから来て…
PAGE TOP