護良天皇の生涯をたどりながら、鎌倉宮に祀られることとなった悲劇の逸話を、お話しします。何があったのか?何故?その謎にせまります。きっと、皆さんの参詣の意識に変化があるでしょう。ぜひ、護良天皇への理解を深める機会にしてください。
1 若き戦士
2 戦火へ
有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた
しかし、討幕の功労者は足利尊氏とされます。
3 孤立へ
鎌倉幕府滅亡後1333年、後醍醐天皇の開始した「建武の新政」により、護良親王は征夷大将軍に任じられ京都へ向かいました。
しかし、親王は尊氏たちを警戒し続けたのです。
4 なぜに……
後醍醐天皇という父親
しかし現実は、後醍醐は実質上の天下を治める天皇となりました。
ただ、北条氏の執権が権威を強めていた鎌倉後期。後醍醐天皇は討幕へ向かいました。
そして元弘の乱の際、1332年、天皇は隠岐島に流されます。この頃、護良親王らが各地で盛んに反幕活動をしていたのです。
後醍醐天皇という父親のために。そんな護良親王が見受けられます。でも心の内は、誰も信じられない。親王は自分の身に起こる悲劇を予感していたかのようです。
裏切り
北条得宗家による執政体制となった鎌倉幕府は、政局不安をあおり、各地で反幕運動が起き、武士からの信頼も失っていきました。それに乗じて、足利尊氏と後醍醐天皇は自己の権力のために、互いに嫌い合いながらも、討幕へ向かい表面的に手を組んだことになります。
そこに信頼はなく、その狭間で護良親王は利用されている自分の身に、危機感があったのでしょう。裏切りは裏切りを呼び……最後は。
5 親王の抵抗
護良親王が尊氏暗殺をたくらんだのは事実です。
しかし、その裏側の史実として、真実は別のところにあるかもしれません。それは、尊氏討伐計画は後醍醐天皇の命令であったという見方です。何故、このような別の真実が浮かび上がるのでしょう。
父との不和
しかし、その理由は飛躍したものであり、本当の理由ではないとされます。地位を奪う行為というのは、親王を尊氏側に引き渡す理由として乏しいのです。ですから、天皇が示した理由は、護良親王からすると「濡れ衣(ぬれぎぬ)」と考えられます。
そうなると、「別の理由」を考えます。
護良親王は、鎌倉幕府討伐の戦のさいに、天皇が討幕の発令を「綸旨(りんじ)」として出したのを無視して、皇子が命令する「令旨(りょうじ)」を発行しました。それから、親王と後醍醐天皇の関係は悪化したと言われています。
「別の理由」とは。
武家を良く思っていない後醍醐天皇が命じて、護良親王の「令旨」として尊氏暗殺計画が進められた。その計画を知った尊氏も兵を集めて備えた。そして、後醍醐天皇は暗殺計画がうまく行かなかったので、事前の策の通り、尊氏の問いに対し「自分ではなく護良親王の独断での暗殺計画だった」と答え、親王を裏切った。
要するに、裏のある「令旨」を目立たせたくないから、「皇位簒奪」を名目に、親王を引き渡して罪をつぐなわせたと考えられます。
それに加え、「令旨」にある尊氏暗殺を理由とすれば、尊氏側に親王の身柄を渡すのに、後醍醐天皇自身の威厳が、武家への謝罪と屈服という形で損なわれる可能性があります。「皇族第一位」の強い思惑があって、後醍醐天皇は活動していたからです。
以上から、天皇自身のための策略が、身柄引き渡しの別の理由と推察できます。
6 親王の死
親王にとって最後の悲劇です。
前征夷大将軍である護良親王は、北条時行に擁立される可能性が高く、そうすれば時行によって鎌倉幕府が復活すると予想されました。それが、護良親王殺害の理由です。
親王殺害の2日後、鎌倉は北条軍により陥落しました。
7 弔い(とむらい)
親王が幽閉された土牢
理智光寺址
首を斬られた護良親王が、噛み折った刀を死んでも放さなかったので、斬首した義博は恐ろしくなり、親王の首を捨てて逃げ去ったと言われます。その首を拾って葬ったのが理智光寺の僧だったということから、親王の墓、石碑が残されています。
南北朝時代
安国寺利生塔は、室町幕府没落とともに衰退しました。