聖徳太子が建てた「四天王寺」は貧しい人々を救う中心地!

大阪市にある四天王寺は聖徳太子ゆかりの寺です。聖徳太子が建てたといわれる寺は数多くありますが、確実な証拠がある建物は少なく、中でも確実に建てたという寺のひとつが四天王寺といわれています。そんな四天王寺は「寺」でありながら孤児院や病院の先駆けともいえる寺でもあります。

四天王寺とは

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四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
国宝、「四天王寺縁起根本本」には創建の由来などが記されています。創建の重要な意義の一つが、今日の病院や孤児救済の施設など社会福祉事業にあたる四箇院制度でした。四天王寺は、仏教の根本思想である慈悲の教えを広めるだけでなく、実践する場として創建されたのです。
四天王寺は日本史で最も有名な人物の一人、聖徳太子にゆかりのある寺です。
略称を「天王寺」、別名「金光明四天王大護国寺」と呼ばれることもあります。

日本仏教の祖「聖徳太子」

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こちらは「新井薬師寺」の聖徳太子象。近年の研究で旧一万円札などに使用されていた最も有名と思われる「聖徳太子」の絵は別人であるのではないかという説がでています。
聖徳太子の誕生は敏達天皇3年(574)、橘豊日皇子(のちの用明天皇)の第二子で、生まれてすぐにものを言い、聖の智慧があったといいます。

崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が仏教の受容をめぐって合戦が起こりました。当時16歳のお太子さまは物部守屋討伐軍に従われました。このときお太子さまは白膠木(ぬるで)の木で作った四天王像を頭に挿して、この乱に勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立しその生涯をかけて衆生救済に務めることをお誓いなされました。

「冠位十二階」や「十七条憲法」などの制度を作った人物である聖徳太子は、
「衆生救済」のために四天王寺内に薬草を栽培する施設「施薬院」や、
現在の孤児院に当たる「悲田院」などの庶民救済の施設を造りました。
これは仏教思想の「慈悲」に基づく考え方から生まれたものです。
これらの建物を「四箇院」と呼び、聖徳太子は庶民救済にその生涯を捧げます。

日本最古の仏教寺院の1つ

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幾多の戦火や天災に見舞われ、直近では第二次世界大戦で焼失してしまう。
四天王寺は、聖徳太子建立の七大寺の一つ。日本仏法最初の官寺。

 日本に仏教が伝来すると、仏教信仰に反対する物部氏と賛成派の蘇我氏が対立、587年(用明天皇2年)になると武力闘争へと発展する。

 その戦いで蘇我氏についた聖徳太子は、戦いの形勢不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「もし戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立する」と誓願し、勝利を収めたのだと伝えられている(593年(推古天皇元年))。

昭和20年3月、米軍の空襲により焼失
昭和38年、中心伽藍(五重塔、金堂、講堂、仁王門)を再建し現在に至る
幾多の戦火に見舞われながらも再建され続け、
現在建てられているものは昭和38年に建てられたものですが、建立当時の姿をそのまま再現してあります。
明治時代には「神仏分離令」で日本全国の寺は国家神道の思想の元で苦しい立場に置かれますが、
多くの人々の信仰によって守られ続け、現在では四天王寺福祉事業団によって苦しい人々の救済を行っています。

伽藍配置

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あべのハルカスからみた四天王寺。建物が一直線上に並んでいることをしっかりと確認できます。
中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が南北一直線上に並び、廻廊は中門左右から講堂左右に取り付き閉じる。飛鳥時代の代表的な一塔一金堂の伽藍配置で四天王寺式伽藍配置と呼ばれている。
伽藍配置は大陸から日本に伝わった建築方式で、
大陸文化が日本に伝わったことを残す重要な証拠となっています。
日本で最も古い建築様式といわれ、6世紀から7世紀ごろの大陸の様式を知ることができる建物です。

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