昔の人は、戦争に色々なものを願掛けして持っていていました。例としては、武士階級の出陣や凱戦の儀式、結婚式などで昆布が使われていました。他にもどんな縁起物があるのか、それについて述べていこうと思います。
戦場や凱旋時にする事
戦国時代には武士階級の出陣、凱戦の儀式に昆布は欠かせぬものとなりました。
敵に「打ち勝ち喜ぶ」という語呂合せで、勝利のときには「勝ち、打ちて喜ぶ」と順序を逆にして祝いました。
当時の武士達は、戦場に赴くときも、戦に勝った時も何かにつけ昆布を食べていたのです。これがやがて民間に伝承され、のしあわび昆布は、
結婚や元服(成人の祝い)、その他の慶事になくてはならないものになっていったのです。
昆布を宮中で用いたのは、おそらくかなり古いもので、『年中定例記』によれば、「殿中正月ヨリ十二月マデ、御対面御祝ハ以下ノコト」として「焼栗九、 昆布九切れ(一寸四方)」と記しています。時代下って、戦国時代になると、その慣わしは武士階級にも広まり、出陣、凱戦の儀式に昆布は欠かせぬものとなりました。
「軍用記」によると、出陣式で、白木の三宝にのせて出される品は三品で、打ち鮑(あわび)が5本、勝ち栗が7個、長昆布が5切れです。
式では、大将が南向きに床几に腰をかけ、酌人のついだ酒を飲み、決められた順に、先の三品を食べてゆきます。
打鮑、勝栗、昆布が「打ち、勝ち、喜ぶ」となって縁起がいいので、出陣前にはこれらを喰うそうです。しかもこの順番に喰うのが絶対条件。だから、順番も覚えないといけません。さらに、それぞれの喰い方にも細かい決まりがあったそうです。しかもその細かい決まりも全部縁起かつぎ。
戦場で上げる勝鬨ですが、単なる掛け声ではなかったようです。城を落とした時の勝鬨は「泰平の時」と呼ばれ勝利によって平和がもたらされる事を祈るものでした。そして、「捨頸之吐気」なるものがあり、軍配者(吉凶判断の専門家)により作法通りに討ち取った首を捨てながら鬨を上げるもので怨霊封じに近い意味があったようです。また、「勧進時」というのがあって陣に神を招きよせるための鬨の声もありました。
戦争の軍師の役割
あの『三国志』の諸葛孔明も、自然現象を味方につけて戦った名将です。彼の考案した 「奇門遁甲方(きもんとんこうほう)」という戦術は、相手の軍勢の配置や自然現象を読み、戦法を変える方位術。
日本にも古代、中国から伝えられ、明治時代に至るまで、歴代の軍師が研究した本がたくさん残っています。
戦争という、大勢の人間の命や幸せを左右する事柄にも、それだけ自然現象=雲気=運気というのを重視していたということなのでしょう。
中世までは、軍師は占いなどの知識が大事。皆、神仏を恐れていたから、戦も、神仏の加護を得ることが大事だった。
鎌倉期の承久の乱の時に、漢文の院宣が読める武士がおらず、大江弘元が対応したと言う。
だから寺で漢籍・漢文を学ぶことが大事。その一つの孫子の兵法は、戦いは、戦わずに勝をおさめることが大事というもので、この発想はヨーロッパではクラウゼビッツの戦争論まで無かった。
実は作戦の立案は軍師の役割の1つにすぎません。むしろ、作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。