鳥越神社の平将門伝説は北斗七星聖域7つの神社の拠点!

鳥越神社から始まる、平将門聖域伝説。その全容を、7つの神社をご紹介し、コラムをはさみながら、解明します。埋まっていると言われる将門の体や武具の部位も浮上します。なぜ将門伝説は今に残され、謎が深いのでしょうか。お読みになってスッキリ、平将門伝説を理解して下さい。

これから、ご紹介します①~⑦の神社と旧跡を、地図上で順に結んでみると。
北斗七星の1~7番の柄杓(ひしゃく)の印が浮かび上がります。
それは平将門伝説を結ぶ線ですが、その伝説は、将門の怨霊に住民が苦しみ、その慰霊をしたのが始まりです。
江戸時代には大飢饉など、将門の霊に無礼を働くと災いが起きるとされました。戦後も、将門伝説の跡地に建設しようとしたら死者が続出したなどで、北斗七星の聖域の印が残されました。
北斗七星

北斗七星

北斗七星とは、大熊座という星座の一部です。柄杓の形をしていて、順番は光度ではなく、水を入れる部分の先端から1番、2番、と反対側の柄(え)の先端の7番まで続きます。
通常、恒星記号の順番は光度の高い順なのですが、北斗七星は特例として異なるのです。

1番(アルファ)、2番(ベータ)の延長線上に北極星があります。

① 鳥越神社 〈北斗七星〉

鳥越神社

鳥越神社

651年、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀って「白鳥神社」と称したのが始まりです。
その後、平安時代後期の戦争のおり、源頼義とその子義家がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知って川を渡れたので、鳥越大明神となりました。
東京都台東区鳥越にあります。

平将門の怨霊は、非常に恐れられていました。災厄を払う目的で、将門伝説は生まれました。
伝説において鳥越神社が重要拠点なのは、災いを守るとされる北斗七星聖域1番ヶ所だからと言えます。
神社の宮司が、平将門の末裔(まつえい)とされる点も注目です。

七曜紋(しちようもん)

七曜紋(しちようもん)

鳥越神社の境内で多く見られる「七曜紋」。これは、中国では日~土曜日の七つを模様にしたものでしたが、日本では主に、「曜」を星として七つの星は北斗七星を表しています。

模様は、画像の向かって右のものです。一つの丸を囲んで六つの丸を描き、合計七つの星を表しています。これは、北斗七星信仰における模様です。

② 兜神社 〈兜〉

古代に「倉稲魂命(うかみのみたまのみこと)」を祀ったのが始まりです。穀物の神で、稲荷神として有名です。稲荷といえば「キツネ」ですが、キツネは作物の害獣を食べてくれたから神となりました。

その後、源義家が戦に出陣する前に、兜をささげて勝利祈願をしたとされています。
東京都中央区日本橋兜町にあります。

平将門が使用していた兜が埋まっているという伝説があります。

平将門の故郷への想い

平将門は関東の生まれ育ちです。
平安京へ行き、藤原忠平と主従関係を結び、12年ほど京都に滞在しましたが、官位は低く、関東へ戻りました。

平将門の乱では、将門は巻き込まれる形となります。何故でしょう。
平将門は故郷の百姓を重視し、一族との闘争に及びました。それが平将門の乱の根本です。

③ 平将門の首塚 〈首〉

この首塚は、数ある将門首塚伝説の中で最も有力です。もとより将門の墓所で、東京都指定の旧跡です。
将門の怨霊に苦しんでいた住民を救うため、1307年、この首塚古墳が建立されました。
東京都千代田区大手町にあります。

平将門の死

将門は、乱の最後、自分の本拠地に敵を誘い込む策に出ましたが、結局は本拠地で討死してしまいました。
将門の首は平安京まで送られました。

しかし、首は消えました。将門側の者が持ち出し、故郷の東へ葬ったと考えられます。
ただ明確なことが分からず、将門の首が空から降ってきたと言われる地点に伝説が残り、災いの要因として語られるようになりました。その言い伝えは、将門の死の直後からあったのですが、江戸時代に盛んになったようです。都が江戸(東京)に定着したからでしょう。

④ 神田明神 〈体〉

神田明神(神田神社)

神田明神(神田神社)

730年、出雲系の氏族が、大己貴命(おおむちのみこと)を祖神として祀ったのが始まりです。伊勢神宮の神田(おみた)があった土地で、そのために創建され、神田ノ宮となったのです。

この神社には、平将門が合祀されています。
この周辺が疫病におかされ、将門を祀りました。大手町の首塚と同時に、日輪寺が「将門の体(からだ)が訛って神田(かんだ)になった」として神田明神の事務をし、将門信仰を伝えました。

北斗七星信仰

古代から、北斗信仰は人気で、北極星は天帝とされ、神格化されました。それにより、北極星・北斗七星の領域が本来の姿とする妙見菩薩を祀る妙見堂が各地に建てられました。

平将門は、大規模な反乱を関東で起こした際、妙見菩薩に窮地を救われたと言われます。将門が朝廷の敵と見なされて殺されてからは、将門の養子の平良文を妙見菩薩が加護したそうです。良文の子孫は、鎌倉幕府の建立に貢献することとなります。将門と北斗七星の関連が見える伝説です。

⑤ 筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ) 〈腕〉

筑土八幡神社は、800年代、付近の老人が八幡神の夢を見てお告げを受け、八幡神(応神天皇)を祀ったのが始まりと言われます。
東京都新宿区西早稲田にあります。

筑土神社

筑土神社は、東京都千代田区九段にあります。
940年創建時に祀られた平将門にちなみ、武勇の神社として勝利祈願でも知られています。

文献によれば、この神社には、将門の首が安置されていたともあり、将門信仰の中心的神社となりました。

江戸時代1616年、江戸城の拡張工事のため、筑土八幡神社の隣接地に移され、筑土明神と呼ばれました。つまりは、筑土八幡神社の場所に筑土神社があったということです。
現在の筑土神社の地点でつなぐと、北斗七星の形が崩れます。

以上から、北斗七星聖域は、江戸時代、徳川家康が信仰推進による平定を計ったことで、確実性を帯びた伝説になったと言えるのではないでしょうか。

『日本書紀』には、筑土八幡神社の祭神である応神天皇は、生まれた時に腕の肉が、手首に付ける弓具のように盛り上がっていたと記されています。譽田天皇(ほむたのすめらみこと)という別名は、その弓具「鞆(ほむら)」に由来しているそうです。
ですから、筑土八幡神社には・・・・・・将門の「腕」が埋まっているという伝説が考えられます。

⑥ 水稲荷神社(みずいなりじんじゃ) 〈目〉

水稲荷神社

水稲荷神社

兜神社と同じく、倉稲魂命を祭神として、「冨塚稲荷」という名前の神社でした。

しかし、1702年、霊水が湧き出し、その水は眼病に効くとされ、「水稲荷神社」に改名されました。ですから、ここは将門の「目」が埋まっているという伝説になるのでしょう。
東京都新宿区西早稲田にあります。

平将門の乱(935~941年)

この乱は、将門伝説を創出した最たる始点と言えます。将門の怨霊説は、生まれるべくして生まれたのです。

乱の原因は、「受領(ずりょう)」の存在にあります。受領とは、おもむいた土地で、国司の最上席となり、任国での徴税権を利用して富を築く、勢力を持った者のことです。

その受領の勢力が拡大し、その土地に住み任用される者たちは権限を奪われ、受領の従者のように仕事を強いられました。それに不満を抱き、現地の富豪農業経営者たちと共に反乱を起こすようになります。

故郷が関東荘園の将門は、受領と地域有力百姓層との間に入り、調停に介入しました。それが、結果的に「朝廷への反逆」と見なされ、激しい戦いへ進んで行くのでした。

その戦いで、自らを新皇とし、関東全域を手中におさめた将門。
しかし、わずか2ヶ月で滅ぼされ、自身の本拠地で敗死したのです。

⑦ 鎧神社(よろいじんじゃ) 〈鎧〉

鎧神社

鎧神社

900年頃、円照寺が創建され、寺の鬼門を鎮めるために、鎧大明神として創建されたと言われています。平将門も合祀され、彼の鎧が埋まっているという伝承があります。
東京都新宿区北新宿にあります。

将門の怨霊とは

平安時代、農民が家族と荘園を守るために、武器と馬による挙兵をし、戦いに出ました。それが武士の原点です。

平将門の悲劇は、朝廷と地方との板ばさみになり、悪者と見なされ、どうにもならず討死し、首は故郷から京へ送られたという点にあります。

やはり、長く多く語られる伝説は、その根拠が納得できるものなのです。

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